副業魔女の私小説

人間として正しく生きるより、一匹のいきものでありたい。本業はどうぶつです。

人を救いたくて生きていた。

 「なぜ生きるのか」と、生きる理由を問われたら、「特に死ぬ理由もないから」と答えるくらいには、今のわたしは生きることに消極的だ。

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数年前のわたしはそれこそ、人を救いたくて生きていた。

 

自分に「生きがい」と言えるものが欲しかった。

こどもを教えること、それで自分に自信を持ち、前向きなこどもが増えること、子育てが楽になるお母さんが増えること。それがひいては、日本の未来を良くすることになると思っていた。それが自分の使命だと思っていたし、何か「使命」を持った自分になりたかった。

 

それまでの自分に、あまりにも自信がなさすぎたからだ。

大学を途中で辞めてしまったから学歴もなく、仕事が続いたことがなく、キャリアと言えるものもない。技術も、資格も、経験もない。なんにもない自分。

そういうものを持っている人が、価値ある人間だと思っていたから、それらに変わるものが欲しかった。なんにもない自分を、他の価値ある何かで埋めたかった。

 

それが、わたしにとっての「使命」とか「天命」と言われるものだった。

使命や天命に生きていれば、自分に価値が生まれると思っていた。すごい自分に、人から尊敬される自分になれる、と思った。だから、いつも誰かに感謝されたかった。「あなたのお陰です」と言われた分だけ、自分の価値が増えると思っていた。

 

だから尽くした。尽くしまくった。生徒のために、保護者のためにできることは何でもした。時間も厭わず、どんな相談にでも乗ったし、どこへでも出かけて行ったし、求められる結果は確実に出してきた。家庭教師時代の、わたしの生徒の成績アップ率も志望校合格率も、共に100%だ。結果を出さなかったことは一度もない。

 

何せ、それで自分の価値が決まってしまうと思っていたから、結果を出せないことが恐くて仕方なかった。わたしは縋っていたのだと思う。「先生のお陰です」「感謝しています」と言われることに。

だから、結果を出したのに感謝されなかったりすると、わたしの中には不満が溜まった。こんなにしてあげたのに、といつしか思うようになった。もはや感謝されることは、「目的」というより「生きる糧」みたいになっていた。

 

そうこうしていたら、ある日わたしは「お前のせいで」と罵られることになった。「お前のせいで自分は不幸になった」と。

ちなみに、この相手は生徒でも保護者でもなく、言ってみれば「無関係」の人だ。個人のプライバシーの問題があるので、詳しいことは語れないが、わたしはその人から一方的に罵倒された上、その後手首を切ったという報告を受けた。

当時、そこで冷静でいられた自分を褒めてやりたい。結構な衝撃だった。

 

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当時のわたしは、どうしてこんなことになってしまったのだろう、と戸惑うばかりだったけれど、今ならわかる。「あなたのお陰」と感謝されることを、生きる目的にしてしまったからだ。

「あなたのお陰」は、簡単に「お前のせい」に変わる。

このふたつは表裏一体...というより、イコールだ。自分が原因で、相手が幸せになれば「あなたのお陰」不幸になれば「お前のせい」相手の状況の原因を「自分」にしている以上、このふたつは相手次第でいくらでも入れ替わる。

 

「幸せにしてあげたい」は「幸せにできなかった」を生むし、「助けてあげたい」は「助けてもらえなかった」を生む。

わたしは、大事なことがわかっていなかった。

「幸せにしてあげたい」と思う時点で、わたしはその人を「不幸な人」にしてしまっていること。「救ってあげたい」と願うことは、その人を「救われていない人」にしてしまっているということ。

 

だから、誰かを救いたいと願うことは、不幸な人を生み出すことになるんだ。

ある決定的な出来事があった。

カウンセリングをしていたとき、数回目のセッションで「なんか、色んな方の本やブログを読んでいたら、だんだん気持ちが楽になってきたんです。楽しいことが増えましたー」と、にこにこ笑うクライアントを見て、わたしは物足りなさを感じたのだ。

 

ーーえー、そんな簡単に楽になられたらわたしの仕事がなくなるじゃん。

ーーていうか本やブログって何? だったらわたしのカウンセリング受ける必要なくない? そんなの見なくていいじゃん。あたしの話を聞こうよ。

 

そんな声が自分の中から聞こえて、わたしは心底やばい!!と思った。

わたしは、この人に不幸でいて欲しがっている。わたしのお陰で助かって欲しいから、他の人やものから遠ざけようとしている。この人を自分に依存させようとしている......!

 

その思考に気づいて、わたしは青ざめた。何を考えてるんだろう。人を自立させることを目的としていたはずだったのに。共依存なんて一番嫌いで、一番避けたい関係のはずだったのに。気がついたら、逆をやっている......

 

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要は、わたし自身が自立なんかしていなくて、「人を救う」ということに依存していた状態だったんだよね。「人を救える自分」という立場に依存してた。

 

そのためわたしは傲慢になり、自分の力を過信してしまった。同時に、相手を弱い人に仕立ててしまった。相手が自分で立ち上がる力と意欲を奪い、相手の領域に踏み込み過ぎてしまった。上に書いた事件は、そんなわたしに対する戒めだったのだろう。

 

大事なことは、その人が楽になることで、悩みが消えることで、幸せになることだ。そのきっかけは様々で、たまたま目についた本やブログのときもあれば、人と話した内容のときもあれば、著名人の講座やセミナーのときもある。空を見上げた瞬間だったり、何かよくわからない何かのタイミングだったりもする。

わたしがその人のために何かしようが、しなかろうが、その人はその人のタイミングで勝手に癒されるし、勝手に救われる。大事なのはそういうことなんだと思う。

 

他人の人生に対して、わたしは何も関与できない。

わたしの力で人を幸せにはできないし、不幸にもできない。

だから、「わたしのお陰」もなければ、「わたしのせい」もない。

けれど、それを求める思考は、その現象を生み出してしまう。

 

だから、その世界から抜けようと思った。

 

今のわたしは、誰のことも救おうとしていないし、誰の役に立とうともしていない。自分の幸せと、自分のしたいことだけを追求して生きてる。

見方によっては、この生き方は人非人と言われるのかもしれない。

人として正しくはないのかもしれない。

でも、あのときの自分に比べると、今の自分の方が遥かに、精神的に健全だと思えるんだよね。

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らぶ♡

 

何かのために生きなくていい。

誰かのために生きなくていい。

人生に「生きがい」も「使命」もいらない。

 

実は、そうすると生きることが割と退屈というか、暇な感じになるんだけどw

今はそれでもいいかな、と思っている。 

 

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