副業魔女の私小説

人間として正しく生きるより、一匹のいきものでありたい。本業はどうぶつです。

身を隠せる安全(匿名)を取るか、自分を証明できる自由(実名)を取るか

ここ半年ばかりの間、SNSからはずっと距離を置いていた。

 

アプリの不調で、一時的にFacebookにログインできなくなってから、なんとなくSNSそのものを見ない、書き込まない生活にシフトしていった。仕事で使う必要もなくなっていたし、ただ雑談を書き込むのみだったので、特に不自由は感じなかったが、一抹の寂しさはある。

 

そこで一時期、匿名掲示板を利用していた。

そう、誰もが知るあの巨大掲示板......と、別に伏せる必要性も感じないので言ってしまうと、2ちゃんねるである。

2ちゃんねるというと、家に引き蘢った社会不適合者が日頃の恨みつらみや鬱憤を吐き出し、人を口汚くディスりまくる場のように思っている人も少なくないが、別に2ちゃんねるはそれだけの場所ではない。(そういう人もいる)

 

2ちゃんねるの基本理念?は「便所の落書き」であって、誰が書いたのかわからない便所の落書きにも、誰それを呪ってやるみたいな物騒なものから、A君と両思いになれますように♡みたいな微笑ましいものまであるように、要するに顔のわからない誰かが書いた無責任な書き込みの寄せ集めである。だから内容は玉石混淆で、本当に目を背けたくなるような口汚い書き込みもあるが、ものすごくためになるものや、めちゃくちゃ笑えるもの、ほっこりと胸が温まるエピソードもあったりする。Twitterでたまに回ってくる「泣ける話」なんかは、割と2ch発祥のものも多い。

 

かといって、別に2chは素晴らしい場所ですよ、なんて言いたいわけでもなく、やっぱり2の基本は「便所の落書き」であって、粗悪な石の割合が9割の玉石混淆なのが前提だ。しかし、ある程度の情報リテラシーさえあれば、それなりに楽しめる場所ではある。(だからって別におすすめはしないよ)

 

ーー匿名は仮面にあらず

f:id:asaming0729:20161218035351j:plain

 

前置きが長くなった。

普段わたしはFacebookやブログなどのSNSは、すべて本名で顔を出し、完全に素性を明らかにして投稿している。だから今回は、匿名での投稿と、名前と顔を出して投稿すること、それぞれでわたしが感じた違いについて、話していきたい。

 

わたしは普段顔出し名前出しで発信しているけれども、匿名で書き込むことにマイナスイメージを持っていない。匿名での書き込みというと、思い出すのは俵万智さんのこの短歌だ。

 

匿名は 仮面にあらず 名を伏せて 人は本音を 語り始める

 

これは、俵万智さんが不妊治療をなさっていた頃、匿名のコミュニティで相談していたときのことを綴ったものではないか、と言われている。(真相は知らない)

 

確かに、こういったデリケートな話題を、有名な方が顔出しで発信したとしたら、個人的な話題や相談の域を逸脱してしまうかもしれない。不特定多数の人に知られることによって、望まない不利益を被るかもしれない。有名な方でなくても、知られたくない事情というものはある。やましいことではないが、公にしたくない話題もある。そういうとき、匿名でいられる場所というのは、安心を生むのだと思う。

誰の目も気にせず話せる場所が、必要な人もいる。リアルでもネット上でも、そういう場所はあった方がいい。

 

ーー匿名であることの不便

ところで、わたしは本名で顔を出して発信することを、実際に始めてみるまで大変恐れていた。理由は、批判や攻撃にあったときに、逃げ場がなくなるような気がしていたから。矢面に立つ恐怖だ。匿名なら、他の匿名の群衆になんとなく紛れ込むこともできるだろうが、名前を出せば、攻撃の手は「戸田朝海」個人に向かってくる。それが恐くて仕方なかった。

 

しかし、実際に匿名の場所で書き込みをし、住人とやり取りをする中で感じたのは、「匿名であることの不便」だった。

 

確かに、匿名だと無責任にどうでもいいことを書き込める気楽さはある。ただ、無責任にどうでもいいことなら、わたしは顔と名前を出しながらでも書くので、あまりそこに利点はないのだけどw

ただ紛れ込める良さはある。数時間後には、誰が書いたものかわからなくなるから、本当に発言に責任なく書ける。次の日には別人のような顔をして、反対のことを言ったって、誰にもわからない。

 

ただ、それこそが不便さでもある。

「誰が書いたのかわからない」ものだから、発言に一貫性を持たせにくい。1人との連続したやり取りでならそれも可能だが、別々の人間と、例えば3人の人間と別にやり取りした3つの書き込みは、全てわたしの発言だが、傍目には別の人間による独立した3つの書き込みと見なされる。

 

少なくとも3つくらい同じ人間の書き込みを見れば、「この人はどういう考え方を持っていて、どういう人間であるか」が、うすうすとは掴めるだろう。だからその分、対話の内容を深められると思うのだが、一つ一つの会話を独立させてしまうと、相手の意図や発言の背景が見えず、どうしても会話が表面的なものになってしまう。それがちょっと、つまんないなーと感じた。(まあ、2chで深い会話をしようとする方が間違ってるんだろうね)

 

ーー身を隠せる安全を取るか、自分を証明できる自由を取るか

f:id:asaming0729:20170403022412j:plain

 

そして、もう一つ。

それは、憶測による批判や誤解に対して、反論が難しいところだ。

会話のやり取りをしていくと、ぶつかることもあるし、食い違うこともある。それは別にいいんだけど、問題はわたしの発言に対して、勝手な憶測で反論されたり、誤解されていたりするときだ。

 

例えば、なんだけど。よくあるのは「こういう発言する人って、こういう人なんじゃない?」みたいなのね。これって、こちらが素性を明かしていれば、起こり得ない会話なんだ。だって最初から「こういう人」の部分が明らかだから。推測の必要がないから、邪推もされない。

自分の顔と名前とプロフィールを明らかにしていれば、「この人はどうせこんな人物だよ」と邪推されることはない。誤解されても、プロフィールページや過去記事を見せれば、わたしがどんな人物かはわかってもらえる。もちろん偽装できるから、信じない人もいるだろうが、それでも完全な匿名よりは遥かに説得力が高い。

 

匿名の環境では、こうした邪推や憶測に対して、自分を証明する方法がない。簡単に嘘がつけるし、それが真実であると証明する方法がないからだ。そして、簡単に他人に成り済ますこともできる。顔が見えない、ということが、そのまんま、窮地にもなる。

 

難しいものだなあ、と思った。

匿名であること、実名であること。どちらにも利点があり、欠点があるのだと思う。どちらが正しい、間違い、でもない。それぞれで、何を必要としているか。あとは好みだと思う。自分が何のために、どんなコミュニケーションを求めるのか、だ。

 

その上で、わたしは名前を伏せて、自分が何者かわからなくして話すよりも、素性を明らかにして、顔の見える相手と話す方が楽しいと思った。楽しいし、楽だ。隠れていないということは、隠す必要がない、ということだから。わたしという人間をわかってもらった上で話す方が、よけいな説明を省けていい。これはわたしの好みだ。

わたしは、身を隠せる安全よりも、自分を証明できる自由を選びたい。

 

(でもよく考えたらわたし、まだちゃんとしたプロフィール書いてなかったね)

 

プーさんの鼻 (文春文庫)

↑引用した短歌は、こちらに収録されています。

 

……………………………………………………

facebookhttps://www.facebook.com/asamitoda0729

mail:asamingworld@gmail.com

……………………………………………………